セロ弾きの受難
「おれというのは、まったくなんてついてないんだろう……」 男は今日何度呟いたかわからない嘆きを口にして、頭を抱えた。 彼の名はゴーシュ。 小さな町の活動写真館に勤める楽団員、しがないセロ弾きである。 彼は、今、飛ばされた場所から目に付いた大きな屋敷の中にいた。 自分の暮らす粗末な水車小屋とは全然違う、石造りの大きくて立派な家だった。 けれど、そのどっしりした石の壁も、絨毯敷きの床も、何ひとつ彼に安心感を与えてくれはしなかった。 雪の女王の言葉をもう何度も何度も頭の中で反芻してすっかり自分の置かれた状況を把握はしていたが、 かといって理解できるというものではなかった。 殺し合い。 まったくもって悪い冗談だ。 おれみたいな貧乏楽士に、なんでそんなことができると思う。 そんなことは軍人とか兵隊とか得意なやつらがやればいい。 おれの仕事はそんなことじゃない。 おれの仕事は、セロを弾くことだけだ。それだけがおれにできる唯一のことだ。 「ああ、なのに……」 今この手にセロはない。 ならばもう自分にできることは何もない。 「なんてこった。おれがなにをしたっていうんだ……」 ゴーシュにはもはや絶望する以外に何もできなかった。 楽団でいちばんの下手なセロ弾きで、何も楽しいことのなかった日々でさえ、こんなに絶望したことはなかった。 楽長に毎日怒鳴られて、悔しくて、いたたまれなくて、泣き叫ぶように必死にセロを弾き続けたあの日々でさえ。 「やっと、認められてきたのになぁ……」 ゴーシュは、弓ダコにまみれた自分のてのひらを見つめた。 この手も、指も、決して器用に動く方ではない。 たいていの人間は音楽家といえば才能の塊だと思っているだろうが、音楽家の中でも末端にすぎない彼には、それは縁のない言葉だった。 それでも、努力して、努力して、努力して。 ただひたすらにセロの弓を引き続けることで、やっと何かがつかめてきた。 町の音楽会で、ひょんなことからアンコールのソロを弾くことになって、無我夢中のうちになんとか成功させて。 その日から駄目なセロ弾きだったゴーシュの評価は一変した。 努力の末につかんだ境地を実力というのかは知らないが、彼のセロは人の心を打つ音を紡ぎ出せるようになった。 そして、これからというときに。 「楽長は怒っているだろうなぁ……」 下手くそで皆の足を引っ張ってばかりいた頃、真っ赤になって彼を叱りつけていた楽長の顔を思い出す。 ここがどこだか知らないが、職場に辿りつくのが無理なのだけはわかっている。 今日はもう無断欠勤だ。 いや、明日も、明後日も、その先も。 きっともう、楽団には永遠に戻れないのだ。 「おれに殺し合いなんてできるわけがないものな……」 じっとてのひらを見つめる。 セロを弾くためだけの手。人を殺すことなどできるはずのない手。 ならばこそ。 「もう一度、セロが弾きたいな……」 彼は自分の愛器を思った。 決して立派なものではない。むしろオンボロで、粗末なセロだった。 二番の弦を弾く時は、いつも音が少し遅れる粗悪なセロだった。 それでも貧乏な楽士には、全財産と呼べる大事なセロだった。 もっと高価で音のよいセロを弾くことを、いつも夢に見ていたけれど。 お金をためて、いずれは買い変えようと思っていたものだったけれど。 失った今になって、こんなにも愛しいものだったとのかと気付く。 「あのセロだけが、おれに意味を与えてくれたんだ!」 ゴーシュは一目見るなり机に放り出したままの、支給された短剣を睨んだ。 こんなもので、どうしろというんだ。 おれは腐ってもセロ弾きだ。剣なんか欲しいと思ったことはない! それは飾り気のない実用的な短剣で、とても使いやすそうなものではあったけれど、 ゴーシュは鞘を抜いてみようという気にさえならなかった。 剣なんかいらない。武器なんかいらない。人殺しの道具なんかいらない。 おれが欲しいのは楽器だ。 古ぼけてはいても、見事な流線型を描く、つややかで、力強くて、美しい、セロだ。 セロを、セロを、セロを探さなくては。 どのくらいの間、そうしていただろう。 短剣を睨んだまま、己のセロに思いをめぐらせていたゴーシュはふと顔を上げた。 音楽家の繊細な耳がある音をとらえ、それが思考を中断させたのだ。 リン……リン……リィン…… だんだん近づいてくるその音は、鈴の音に似ていた。 「なんだ……?」 音は外から聞こえてくる。彼は慌てて部屋の窓を開けた。 リィン……リン……リリィン…… 「ハンドベル?……グロッケンシュピール?……チェレスタ?」 記憶を総動員して、知っている限りの楽器の中から、似たような音色を思い起こしてみる。 どれにも似ているようで、どれとも違う。 けれど、とても綺麗な音だった。 ゴーシュは必死に耳を凝らし、音の方向を確定しようとすべての窓を開け放った。 ――それを、待っていたかのように。 金色の小さな光が、美しい音を響かせながら、天窓から飛び込んできた。 リィン!リィン!リィン!! 金色の光は、てのひらに乗るほどの小さな少女の姿をしていた。 “妖精”という言葉を思い出すまでに、ゴーシュはしばしの時を要する。 しかし、その妖精はとても異様だった。 顔は愛らしいが、何故か表情は恐ろしいほどに殺気だっていた。 おまけに、右手には、火のついたマッチ棒を握っており、それをぶんぶんとたいまつのように振り回しているのだ。 「お、おい。あぶないぞ……」 妖精はかまわずゴーシュのまわりを飛び回り、マッチ火の粉が彼の頬を撫でた。 彼女が放っているらしい鈴のような音はますます大きく、激しくなり、ついにゴーシュの耳元で炸裂した。 ゴーシュにはさっぱりわからなかったが、鈴の音を言葉に翻訳するとだいたいこのようになる。 『それピーターの短剣なんだからね! 返しなさいよどろぼう!!』 セロ弾きの受難は、今まさに始まったところであった。 【H-6/庄屋の家】 【ゴーシュ@セロ弾きのゴーシュ】 [装備]ピーター・パンの短剣@ピーター・パン、支給品一式 [状態]健康 【ティンカー・ベル@ピーター・パン】 [装備]マッチ@マッチ売りの少女、支給品一式 [状態]健康 ※庄屋の家=農協です。前述案より。
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